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KOBEZINE

INTERVIEW

2022.6.3

我々が本気で「面白い」と思わないと消費者には伝わらない〜進化し続ける「淡路屋」の副社長柳本雄基さんが駅弁にすべてを捧げる理由

Text_山﨑 謙 / Edit_伊藤 富雄 / Photo_相澤 誠(ADW Inc.)

2022年1月。ひとつの駅弁がSNSを中心に話題になりました。貨物列車のコンテナをモチーフにした弁当箱の駅弁「JR貨物コンテナ弁当」です。

ありそうでなかったこの駅弁は鉄道ファンのみならず、一般の人をも巻き込んでSNSでまたたく間に拡散。あまりの人気で「深刻なコンテナ不足」に陥り、一時販売休止になるほどでした。

この駅弁を手掛けたのが「株式会社淡路屋」副社長の柳本雄基さんです。100年以上の歴史を誇る老舗企業に入社し、その後営業や商品開発を担当。他業種とのコラボをはじめ新たな駅弁の開発、販路の拡大など、「淡路屋」のみならず業界にも次々と新風を吹き込んでいます。

さて、昨年副社長になられた柳本さんのそのバイタリティは、一体どこから来るのでしょうか?

<プロフィール>

柳本雄基(やなぎもと・ゆうき)

1981年生まれ。兵庫県加古川市出身。2004年株式会社淡路屋に入社。営業や商品開発を経て、2021年代表取締役副社長に就任。

神戸での「淡路屋」の歴史は戦災で廃業した駅弁屋の引き継ぎからスタート

まず、「淡路屋」の発祥について伺いました。

柳本さん「株式会社淡路屋は1903(明治36)年創業の駅弁屋です。もともとは北新地で料亭をやっていたんですが、創業者がこれから鉄道が発展するだろうから、鉄道における商売をしたほうがいいだろうと判断して、はじめは阪鶴鉄道(JR宝塚線・福知山線の前身)の車内販売からスタート、その後宝塚のとなり生瀬駅に店を構え、本格的に駅弁屋としての歴史がスタートします。

戦前はずっと福知山線沿いで営業していて、宝塚のダンスホールの食堂など、いろんなことをやらせていただいてたんですが、太平洋戦争のさなかに神戸駅で営業していた駅弁屋さんが戦災でなくなってしまうんですね。

でも駅弁の需要はあるので、鉄道局から神戸に移って駅弁屋をやらないかという打診があり神戸に移転。ここからが神戸での淡路屋の歴史のスタートになります。」

実は神戸発祥ではなかったんですね。ちなみに創業者である寺本秀次郎氏の二代前が淡路屋卯兵衛(あわじやうへえ)氏で、「淡路屋」という屋号もそこから取られたとか。ただし、淡路島に縁があるのかどうかははっきりしないそうです。

明治時代の「これから鉄道が発展していく」という創業者の先見の明は、現代まで続く淡路屋の礎になっているようです。

ハローワークで見つけた「淡路屋」の求人

ところで、柳本さんが入社したきっかけは何だったんでしょうか?

柳本さん「実は理由はないんですよ。

若いとき、本当に何の目的もなくふわふわ〜と生きてて、大学卒業するときも内定決まってるところを蹴って、4,5,6月と遊んでたくらいで。普通やったらありえないんですけど、うちは放任主義で育っているので『自由にやっとったらええやん』と(笑)。

でも3ヶ月くらい放浪してると周りの友人がしっかりしてきて、『これはあかん』と。軌道修正するためにハローワークへ行ったんですけど、本当にいい加減やったんで、何も考えず勤務地も何も見ずに、あいうえお順の『あ』で淡路屋さんを見つけて受けたんですね。面接練習をやって、久々にちゃんとしようと思って受けたら受かりまして。

たまたま6月に(淡路屋本社のある)魚崎に移り住んでいて、3日後から出勤するようになって、今に至るみたいな感じですね。」

なんと、何が人生を左右するか、本当にわからないものですね。

はじめて世襲ではない副社長の誕生

当KOBEZINEの編集長である安藤は、2021年の「神戸中華焼売弁当」でコラボを組んだ際に当時常務だった柳本さんと知り合います。

かねてから「淡路屋にすごい常務がいる」という話を聞いてはいたものの、その後、柳本さんが代表権をもった副社長になったと知り驚いたと言います。

安藤自身も三宮一貫樓の3代目で「ずっと世襲してきてこれからも世襲していくんだろうな」と考えていたので、自社よりも歴史のある淡路屋が、柳本さんに代表権を与えたことはかなりの衝撃だったようです。

現在の5代目社長まで世襲が続く中、代表取締役副社長になったことを柳本さんはどう感じているのでしょうか?

柳本さん「重いですね。でも重いと言っても自然体でやっていくだけですね。

私は本当に淡路屋という会社が好きで、今までも淡路屋のことを思っていろんなことをやってきましたから、代表権がついたからと言って、それが変わるわけでもないし、たぶんそれだけの動きをしているから信をいただけたのかなと思ってます。

でも、あくまで共同代表ですから。社長ももう60歳を迎えましたし、万が一のことを考えての共同代表になっているんだと思うんです。」

控えめなコメントですが、その胸のうちにはコロナを通じて湧き起こってきた熱いものがありました。

コロナ禍から会社を守る経験が自信になり会社を支えたいという想いに

副社長のお話はいつからあったのでしょうか?

柳本さん「コロナ前からそんな話はポツポツ出てましたけども、私のほうはまったく自信がなかったです。経営というものがどんなものかもわからずに、ただひたすらに営業していただけですから。

コロナになって本当に会社が傾いてどうしようもないときに、懸命に動いたんですけど、そのときに今まで以上にただ売るだけじゃなくて、会社を守るということに対していろんな取り組みをしました。それで多少は代表というものがどんなもので、経営がどんなものでという経験ができたと思います。

コロナに入って1年くらい経って改めてお話いただいたときに、気を揉んだんですけど、気負ったり、拒否したりするのもおかしな話で、今後もっともっとこの会社を支えようと思うんであれば、お断りするべきではないなと考えて受けたということですね。」

もしコロナがなかったら受けてなかった?

柳本さん「多分…と言うか当然受けてないと思います。何もわからない、自信がないで逃げ回ってたと思います。」

コロナ禍ではからずも会社を守ることに奔走した経験が糧になり、副社長になる決意をした柳本さん。副社長になってまもなく1年ですが、何か変わったことはあるのでしょうか?

柳本さん「スタイルは変えてないですね。
ただ売ればいいとかそういうわけではなくて、もう本当に会社全体のことを今まで以上に見るようになりました。

今のポジションになって一番よかったなと思うのは、『社長ってこういうふうに苦労してたんやな』というのがすごくわかるようになったことですね。『多分我慢してはったんやな』というのがわかるので、今、社長とはいっさい揉めません。

『多分社長やったらこう考えてるからこうすべき』と思うことは言われる前に先に現場に落として流すようにしてるんですけど、今まではそんなに噛み砕いた言葉で現場には落としてなかったんです。

私は現場から上がってきているので、現場も社長の立場もわかるので、『社長はこう考えてこうなってるからこうよ』というのを先に伝えて、『だから会社がこうやったらこうなっていくよね』というふうに説明していくと、従業員の方も『なるほど、それはそうですよね』と納得してもらえますね。

今のポジションはすごい楽しいですし、私の社長に対する見方が変わったので、今まで以上に尊敬するようになりました。」

現場も経営側も熟知しているから、社長と従業員の間を取り持つことができる。会社の未来を想う柳本さんだからこそできる役割ですね。

商品アイデアに「これあかんで」と言ってもらえるのはありがたい

淡路屋には冒頭の「JR貨物コンテナ弁当」をはじめ「ひっぱりだこ飯」などさまざまなヒット商品があります。

「ヒットすると思っては出してるんですけど、たまたまヒットしただけですね」と言う柳本さんですが、そうした商品はどのようにして生まれるのでしょうか?

柳本さん「『ひっぱりだこ飯』は社長の発案で、それ以外の進化系というかこねくり回して遊び倒してるみたいな感じなのは全部私がやってますね(笑)。

社長と私、どっちが多いというよりはジャンルによって個性が出ている感じですね。ただ、最近は私のほうが商品開発中心でやっているので、私のほうが多いです。」

「これあかんで」と言われることはありますか?

柳本さん「いっぱいあります(笑)。でもそれがありがたくて、僕は思い込んだらもう熱中してやっちゃう。夢中でしょ。周りが見えてないんでひとりよがりになることが多いんですよ。

なので、出す前には必ず社長に報告して見せて意見を求めるようにしてるんです。そうすると、必ずきれいにブレーキを踏んでいただけるんです。それも急ブレーキじゃない。

完全にボツにするのではなく、『出すことは否定しないけど、ここはもう少しこうしたらどう?』という助言をいただいて、ちょうど体裁のいい商品に仕上がっていくんですね。だからありがたいですね。

ただ『コンテナ弁当』に関しては『僕はわからん』と言ってましたね。『これはもうあんたに任す』って。」

時間をかけて考えたアイデアを完全にボツにされると結構凹むものですが、社長はそういうことはせず、きれいにブレーキを踏んでくれる。それがわかっているから、柳本さんも安心してアイデアを出すことができる。だから自由な発想かつお客様にも受け入れられる商品が次々と生み出される。

理想的な商品開発のプロセスを踏んでいることが、次々とヒットを生む理由のようです。

全幅の信頼を得るきっかけになった「ゴジラ」とのコラボ

今でこそ商品開発に全幅の信頼を得ている柳本さんですが、一度だけ社長の反対を押し切ったことがありました。それが大きなターニングポイントになります。

柳本さん「一回だけ社長の反対を押し切って成功したことがあって、それが『ひっぱりだこ飯』と東宝の 『ゴジラ』とのコラボ商品でしたが、これは反対されましたね。

社長に『こんなん売れるの?絶対に売れへんと思うけどな』と言われましたが、私は『いや、売れますって。ゴジラファンと駅弁ファンは層が近いから売れますって』と言って、なんとなく理論的にも『行ける行ける行ける』と思い込んでたんで、そのときだけは聞かなかったんです。

社長からは『売れんかったら責任とりや』と言われてましたけど、売れてくれました。このことがあってから社長は『世代が変わっている』ということを口にし始めたんですよ。」

すごいですね。

柳本さん「いや、すごいなと思います。

『僕にはわからんけど、あんたらの世代の商品はあんたらが考えたほうが正しい場合が多いから、大きく間違ってなかったら、僕は否定せえへんよ』というふうに変わったんです。」

「世代が変わっている」ことを意識するのはなかなか難しいことですが、明治時代に「これからは鉄道が発展する」と見越して駅弁屋を始めた初代の先見の明が、末代まで脈々と受け継がれているからこそのエピソードなのではないかと筆者は感じました。

柳本さんが携わった「ゴジラ対ひっぱりだこ飯」は2019年1月に発売、メディアにも取り上げられ、Twitterでもバズり、大人気商品となります。

熱意がコラボが生み、コラボがコラボを生む

淡路屋では数々の企業とコラボレーションしていますが、気になるのはそうした提携話がどうやってまとまっていくのかです。

柳本さん「ゴジラは貨物コンテナと同じように『思いついた。これはあかん。これ絶対売れる』と思ってしまって、やりたくて仕方なくて、その思いがあふれ切った結果、東宝に電話しました(笑)。

知り合いからたどって行くとかやっていたら時間がかかるので、問い合わせ窓口を調べて電話したら、『ぜひぜひお話しましょう!』みたいな話になって、もう2日後には東京へ行ってました。

で、行って話したら『これこうしましょう』『もう行っちゃいましょう』という感じでトントン拍子に話が進んでいきました。
「ゴジラ対ひっぱりだこ飯」は、ゴジラとタコが対決してるんですけど、特撮映画の中でタコって最大の悪役らしいんですよ。『ゴジラがタコと戦えるなんて素晴らしいことじゃないですか!』と東宝さんの担当者が興奮気味に言い出して、それは面白かったですね。

後からハリウッド版の最新作とうまく重ねることができたんですけど、はじめは理由もないんですよ。ただの情熱、熱意だけで始めているので。」

このコラボを皮切りに「ひっぱりだこ飯」がコラボできるということが認知され、サンリオをはじめ数々の企業とのコラボが実現することになります。

「神戸に中華弁当がないのはおかしい」から始まった三宮一貫樓とのコラボ

三宮一貫樓も淡路屋とコラボし2021年6月4日の「蒸し料理の日」に合わせて、「神戸中華焼売弁当」を発売しました。企画から発売までどのような感じだったんでしょう。

柳本さん「前から『横浜には有名なシウマイがあるのに、中華街を抱えている神戸の街に中華弁当がないのはおかしい』という話をずっとしてたんですよ。そんな中で『組むんだったら一貫樓さんでしょう』という話になって。

このコロナ禍では、思いついたらすぐ動いてすぐ売り出してます。計画する時間がないくらい慌ててましたね。三宮一貫樓さんとのコラボの話をしたのは2月、3月くらいでしたね。」

三宮一貫樓3代目でもある当KOBEZINE編集長の安藤は、淡路屋5代目社長寺本督さんの「小さく始めて、やったほうがいいと思いますよ。そんなビビることないんちゃいます?」との言葉に背中を押され、このコラボが実現。これまた人気商品のひとつとなっています。

徹底的にふざけて、徹底的に楽しんでやる。悩むくらいならやめる。

多くのヒット商品を生み出してきた柳本さんですが、そのエネルギーの源はどこにあるのでしょうか?

柳本さん「『徹底的にふざけて、徹底的に楽しんでやってる』って言うのは本当に社員も含めてみんなに言ってます。

我々が本気で楽しんで『これはおもろいわ』って思ったものが、商社を通すと半減して、売り場を通すと半減してお客様に届いてしまうので、ほんまに我々が『面白い』『これはおもろい』と思わないと消費者には伝わらないと思っています。

だから何かを開発するときに悩んだときは「悩むぐらいやったらやめとけ。お客さんが悩むから。」と言っています。

結局悩んでテーマを持ってくると『悩んでるテーマ』になってしまうんですよ。

無理やりひねり出した3行くらいの言葉でお客さんに説明しても、今度は聞いたお客さんが悩むんです。『そうなんかなぁ、じゃあ、また今度買うわ。』と言って買ってくださらないということになってしまう。」

「JR貨物コンテナ弁当」はどうだったんでしょう?

柳本さん「これは私のひらめきと私のマニアックなやる気だけで完成しました。でもこれやっぱり怖いんですよ。

プラスチックの型をつくるとしたら、何百万かかる。初回のロットで何万個かつくる。それを足したら予算が8桁近くになってしまう。初めてのことではないですけど、やっぱり緊張しますよね。外したらどうするんだとか。でもそれぐらいの額を出してでもやりたいという想いでやってます。」

ただでさえものがあふれ選択肢が多い世の中で、迷わずに選んでもらうためには、つくり手の熱量がどれだけ伝わるかにかかっています。だから、つくり手側が悩まず徹底的に楽しんでやるという柳本さんの考えはすごく腑に落ちました。

情報発信で大切なのは「これ面白い!」と人から人へ渡してもらうこと

そのつくり手の熱量を伝える手段として、淡路屋はSNSでの発信にも力を入れています。

柳本さん「2010年くらいから私が個人で淡路屋を語り始めたんですよ。コツコツコツコツ発信していて、そのときは社長は何も言わなかったんです。『勝手にやっといて〜』みたいな感じ、で。

それがだんだん時代がそっちに移行してくると、社長から『あれ、あの情報、なんで発信せえへんねん』と言い出して、『趣味でやってるのに仕事になってるやん』と(笑)。

それでも『はい、わかりました』とやっていたら、だんだんとフォロワー数が増えてきて、結構な発信ツールになりました。

そうなったときに、Twitter経由で1件取材の問い合わせが来たことがあって『Twitter見ての取材申し込みってあんねんな』と思ったんですね。

じゃあ、もっともっとTwitterというかネットに対して、心の響く発信の仕方をしていったら、もっともっとこう波及効果が大きくなるんじゃないかなって、真剣にそっちのマーケットに対して研究するようになったんですよ。

それからは『Twitterで話題にしたらメディアが来るんじゃないか』という仮説に基づいて、いろんなことをぽんぽん投げるようにしたら、本当に取材がバンバン来るようになりました。

ただうちのフォロワー数だけだと、そんなに広がらないので、プレスリリースの出し方の工夫をしました。」

そう、淡路屋のプレスリリースは記者を惹きつける実に巧みなクリエイティブです。実はそのプレスリリースも自前で制作されています

柳本さん「プレス文はすべて私が書いています。

気をつけていることとしては、出し方を工夫して明らかに『発信してますよ』という感じにならないようにしています。消費者の方からするとただの押しつけになってしまうので。

そうではなくて自然に受け入れられる形にしないと興味を示していただけないですし、人に伝えたいと思ってもらえないんですよね。

『うわ!これ面白い!』って自然に人に渡していただかないと、広がりが途中で止まってしまうので。そこを気をつけてますね。」

柳本さんが書くキャッチーなコピーやプレス文はメディア関係者にも好評ですが、それは普段から「使えそうな言葉があったらメモっておく」「なんか面白いわーというのがあったら拝借しよう」と常にアンテナを張って情報収集している努力の賜物です。

駅弁のアイデアから、プレスリリースの作成、ウェブを使った情報発信まで、柳本さんのお仕事の範囲が広範囲に及びますが、すべてつくり手側の熱量を伝えるという柳本さんの使命感の為せる技と言えそうです。

コロナ前には戻らない。ケの日の市場を築く。

コンスタントにヒット商品を生み出している淡路屋ですが、もともとの主戦場は駅であるだけにコロナ禍では大きなダメージを受け、ヒット商品をもってしてもいまだコロナ前までの売上には戻っていません。

柳本さん「どこで見るかにもよりますけど、売上で言うとまだまだ遠いですね。場所によっては2倍になっているところもあるし、半分のままというところもあります。

公共交通機関系では、週末はコロナ前くらいまで戻って来てるところはありますけど、平日はまだまだ5割から6割ですね…。」

最近は百貨店とかにも出店されてますよね?

柳本さん「そうですね。今年に入って百貨店は4店舗出店しています。

今まで駅弁は新幹線や特急に乗る前に買って食べる『ハレの日のもの』、それがダメだったら日常の『ケの日のもの』である程度市場を築いていかないと、この先やっていけないというのがあるので、その一環で百貨店とかは出店していってます。

絶好調とまでは言えないですけど、想定よりは良い数字で動いています。」

主戦場である駅での売上がなかなか挽回しない中、駅弁を「ケの日のもの」にするという発想は、ある種のパラダイムシフトと言えるかもしれません。非日常にあったものを日常に持ち込んでくる。そうして新しい市場を開拓する。それこそ、商品開発者の面目躍如と言えるのではないでしょうか。

駅弁の灯を絶やさない〜浜坂駅の駅弁「かに寿司」を引き継ぐ

かつて新幹線や航空機が移動の主流となる前は、各地に駅弁屋がありました。しかし、全盛期で400軒ほどあった駅弁屋が、現在では80軒、純粋な駅弁屋は50軒ほどにまで減ってしまっています。

2019年、兵庫県北部の山陰本線浜坂駅の名物駅弁「かに寿司」を生産販売していた「米田茶店」が廃業するとのニュースが流れます。そのニュースを見た社長と柳本さんは「駅弁屋」として居ても立っても居られず行動を起こします。

柳本さん「神戸新聞を読んでいたら、急に廃業しますみたいな記事が出てたんですよ。

兵庫県の北部って以前にも豊岡の駅弁屋さんが廃業されて、浜坂の米田さんが廃業されてしまうと完全に駅弁空白地帯になってしまうんですね。

駅弁って全国津々浦々のいろんなメーカーさんが集まっていることで駅弁というジャンルが成立するので、これはどないかせなあかんなと。『残さなあかん』という駅弁を守る使命感が社長にも私にもありますので。

何ができるかわからないですけれども、まずは『駅弁の灯を消したくないから、うちで引き継がせてもらえないですか?』というのを、いきなり電話をしてお話させていただいたんです。

でもはじめの答えは『うーん…考えて電話します』ってなってしまって、『これあかんのかな』って思ったんですが、それから2週間くらいしてまた僕から電話したところ『あ、いいですよ』って話になったんです。

何が起こったのかなと思ったら、東京のJRさんに共通の知り合いがいて、たまたま米田さんがその方に電話されたときに、『淡路屋さんの寺本さんと柳本さんやったら、絶対大事にしてくれるから大丈夫』と言って安心感を与えていただいたようで、そこからぜひ引き継いで欲しいという話になったんです。」

こうして浜坂駅の駅弁「かに寿司」は、2019年4月10日「駅弁の日」に淡路屋に引き継がれ、現在でも販売されています。

業界の絆を感じるいい話ですが、経営者の高齢化や移動手段の多様化、コンビニやスーパーなどの台頭もあり、今後もこういう事態は避けられません。

今後も同様のケースがあれば、引き継いでいくことはあるのでしょうか?

柳本さん「もちろんそうですね。でも廃業される前になんとか支えたいというのもありますけど、そこまでは言えないですね。

ただそういうことが生で話ができるぐらいの関係性をいろいろ構築しておきたいなという思いはありますね。」

駅弁の灯を絶やさぬためには、ずっと進化し続けないといけない

浜坂の米田茶店のエピソードでもあるように、駅弁はいまや斜陽産業と言えます。

文化として残したい熱烈なファンがいるものの、駅弁の主戦場である駅自体にもライバルとも言えるコンビニが入るなど、環境としてはさらに厳しいものになってきています。

刻々と厳しさを増す業界の現状を柳本さんはどう捉えているのでしょう。

柳本さん「外環境が変化していくのは常々起こることで当然のことだと思いますし、それに対して不満を言ってても何も改善しません。

ただ駅にコンビニが入っても我々の駅での売上は下がってないんですよ。まったくとは言わないですけど、特に影響は受けていないんです。

それは多分我々がずっと変化し続けて進化しているからだと思うんです。動くことによって、やっぱり話題にもなりますし、お客様からも見ていただけますし、満足いただいているから、次の購買につながっていきますし。

私はもう入社して17年になりますけど、淡路屋は止まっていたことがない会社なので、まったく影響がないということもないですけど、売上的に見たら影響はないですね。

でも逆に言うといい刺激になってるかもしれないですね。『駅にコンビニが来るんだったら我々はどうするか?』と、来なかったら考えていないことを考えるようになりますから。これからもいろんなことが起こると思います。」

業界のことを考えて「こうしていかなあかんな」と思うことはありますか?

柳本さん「やっぱりずっと進化し続けないといけない。もうこれに尽きると思うんですよ。そのためには進化のパイオニアとして、うちがよそのやってないような動きを取らないといけないと思うんです。

それが『同業他社があんなことやってんねんから、自分たちだったらどうできるか』というのを考えるきっかけになると思うんですよ。

なので、どこかが動かないといけない。そりゃみんなコロナで大変なので、イニシャルコストかけていろんなことやるのは大変だと思うんですけど、やっぱりどこかが動き続けないと、駅弁というもの自体が注目されなくなりますし、お互いの刺激にもならないですから。」

厳しい環境に屈さず、常に自分たちに何ができるかを考え、駅弁を守るために進化し続ける。進化のパイオニアとしての柳本さんの強い決意を感じました。

自分の目的を「淡路屋」からいただいたから駅弁も会社も自分事になった

ここまでのお話を伺っていると柳本さんが、駅弁や淡路屋のことを心から大切にし、守って行こうという信念がひしひしと感じられます。

家業ではなく社員として入ってきた柳本さんが、駅弁や会社にそこまでの愛情を注ぐことができるのはなぜなのでしょうか。

柳本さん「入社したとき私はまっさらな人間で、別に自分にプライドがあるわけでもないし、何かやりたいことがあるわけでもなかったんです。ふわふわ〜と入ってきたところに、何かしら目的を淡路屋さんから頂戴したのかなと思うんです。

なので、駅弁が自分事になってますし、淡路屋も自分事になっていて、それでずっとやってきた結果、自分事として駅弁も語れますし、淡路屋のことも考えられるようにはなってるのかなと思ってます。」

明治時代に将来を見越して駅弁の販売を始めた淡路屋は、時代とともに大きく変化し続けてきました。

柳本さんは淡路屋に入社したことで、駅弁というテーマを手に入れ、自分の持ちうる熱量のかぎり、徹底的にふざけて楽しんで商品開発や情報発信に勤しんだ結果、その熱量が波及してさらに大きな熱量となり、新しい商品やコラボ商品につながっていきました。

しかしそれは、淡路屋自体に変化や進化を厭わないスピリットがあったからこそできたことではないでしょうか。

柳本さんは「楽しかったんですよ、この会社の歴史が。本当にずっと読んでましたね。」と言います。

柳本さん自身が「駅弁」そして「淡路屋」のファンであり、その熱量をダイレクトに伝えられるからこそ、今の時代のビジネスに必要な「ファンをつくる」ということにつながっています。そして、その熱量があるかぎり、どんなに困難な状況でも乗り越えていけるのは確かのようです。

これからの淡路屋と柳本さんの動向が、ファンのひとりとしてとても楽しみです。

三宮一貫樓 安藤からひとこと

今回のKOBEZINEいかがでしたか。
ひっぱりだこ飯が文字通り「ひっぱりだこ」の理由が垣間見えたのではないでしょうか。

古代ギリシャの哲人アリストテレスは「ロゴス(論理)」「エトス(信頼)」「パトス(情熱)」を人を説得する三原則として提唱しています。

柳本さんが開発する商品には、氏自身も駅弁ファンであり客心理を踏まえた上での戦略構築(ロゴス)、社歴100年以上の老舗企業という土台(エトス)、思い立ったら即行動に移すエネルギー(パトス)が、欠けることなく盛り込まれています。

多くの駅弁ファンを魅了してやまない淡路屋の駅弁のヒットに偶然はなく、必然に仕込まれた緻密なシナリオを描く人物、柳本雄基がいた。

私自身大いに勉強になりました。ありがとうございました。

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