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KOBEZINE

INTERVIEW

2022.12.17

震災・コロナ…幾度も窮地に陥るもファンや出演者に生かされつづける神戸の老舗ライブハウス「チキンジョージ」児島三兄弟の想い

Text_山﨑 謙 / Edit_伊藤 富雄 / Photo_相澤 誠(ADW Inc.)

「神戸のライブハウスと言えば?」という質問をしたときに必ず名前があがるのが、生田神社の西側に位置する「チキンジョージ」です。

オープンは1980年で、今年で42年。栄枯盛衰が激しいこの業界でこれだけ長く続く「ハコ」はそう多くありません。そのこともあってか「チキンジョージ」は「聖地」と呼ばれるようにまでなりました。

「自分たちで『聖地』なんて言うたことない。『登竜門』すら言うたことない。」と「チキンジョージ」の代表取締役で長男の児島進(こじま・すすむ)さんは笑います。

しかし、「聖地」と呼ばれるまでの道程は並大抵ではありませんでした。特に存続の危機に陥ったのが、1995年の阪神・淡路大震災と2020年からのコロナ禍。

それでも「聖地」が存続した理由はどこにあったのでしょうか?

昨年2021年の「KOBE豚饅サミット」前夜祭の会場として利用させていただいたご縁から、今回長男の児島進(こじま・すすむ)さんと三男の児島憲次郎(こじま・けんじろう)さん(次男の児島勝[こじま・まさる]さんはあいにく欠席)と編集長安藤との対談が実現しました。

児島進(こじま・すすむ)

「チキンジョージ」代表取締役・長男

児島憲次郎(こじま・けんじろう)

「チキンジョージ」常務取締役・三男

チキンジョージのはじまりはキャバレーの2階

チキンジョージのはじまりは、1980年当時、同じ場所でキャバレーを経営されていたお父様の「2階に若者たちが集まれる場所できんやろうか」という声からでした。

進さん「当時、父親が経営していたキャバレーの2階がちょうど空いてて。最初はライブハウスではなかったんですけど、とあるきっかけで大学の軽音の連中がやるようになったんですよ。そこからステージやら音響やら照明なんかを入れて始めたのがきっかけですね。」

憲次郎さん「最初から『チキンジョージ』という名前でした。」

「ライブハウスをやろう」となったのはそういう経験がおありだった?

進さん「いやいや、経験はなかったですね。学生たちがバンドをやるとお客さんを呼んできてくれるんですよ。ちょうどその頃、ロックバンドが演れる『ハコ』がなかったので、やり始めたら結構需要があったという感じでしたね。」

その当時、三男の憲次郎さんは?

憲次郎さん「1980年、高校一年生ですね。レジとかそのへん(観客席後方のドリンクコーナー)とかにおったんですけど、機材とかはよう触らんかったので、『皿洗い手伝うわ』って感じでしたね(笑)。」

そのまま運営に関わった?

憲次郎さん「いや、もともとは高校の教員をしてたんで、本格的に運営に関わったのは、父が余命1年やっていうタイミングで。兄から(運営の)話を聞くよりも、父からの話も聞きたいと思って教員をやめました。他でやってた事業を閉めたあとにチキンジョージへはちょっとずつ来るようになりました。」

今や名だたるアーティストから名指しでオファーを受けるチキンジョージですが、豚まんサミットの会場にもなったとおり、音楽だけに限らずさまざまなイベントが行われています。

出演者の基準みたいなものはあるのでしょうか?

進さん「出ていただける方は拒まないですね。落語もやるし、以前のチキンジョージではボクシングやプロレスなんかもありましたね。」

「ライブハウス」という看板を掲げながらも音楽以外にも門戸を広げ、多様なニーズに応えていたチキンジョージは1994年、キャバレーの閉鎖に伴い1階に場所をあらため、神戸の地に根付いていきます。

1階に移転して11ヶ月後、阪神・淡路大震災で被災

1階に移転して11ヶ月、「これから」というときに、阪神・淡路大震災がチキンジョージを襲います。

憲次郎さん「(震災の前日が)三連休やったんですよね。最終日やったから生きとったなって。あれたぶん初日やったら死んどったなって。その当時よく行ってた店が30cmくらいになっていたので…。」

チキンジョージの状況を把握されたのは?

進さん「その日のうちに次男と車で行きました。NHKのところまでしか入れなかったので、歩いて行ったらまわりがかなりひどくて。うちは全壊だったけど、ペシャンコにはならなかったんで、中にある機材は出せるかなと。」

当時、他の事業で長野の白馬に居た憲次郎さんは…

憲次郎さん「朝テレビでヘリからの映像見てたら、生田神社が倒壊していて、となりにあるチキンジョージの建物が一瞬映ったんですけど、『どう見ても傾いとんなぁ…』と。『これは…』と思って車でその日のうちに12時間かけて神戸に戻りました。

で、夜中に帰ってきたんですけど、その様子を見て逆にちょっとわろて(笑って)もたというか…。

火事で自分のとこだけやったらショック大きいかもわからんけど、みんながそうなってるから『なんとかなるんちゃう』って。そこに居た全員が『なんとかなるやろう』って思ってましたね。」

当時大学生だった安藤編集長は兵庫区で被災しました。自宅はそれほど大きな被害はなく、家族や家業の従業員は無事だったものの、親が経営していたお店は全壊。

お店の様子を見に行った安藤の父は、憲次郎さんと同じように「わろてもた」そうです。

「高速道路は落ちてる、元町の大丸もつぶれてる。でも自分のお店はつぶれてないやろと思って行ってみたらきれいにつぶれてて、わろてもた」と。

人間、理解し難い現実を目の当たりにすると、わろてしまうんでしょうね。

「なんとかなるやろう」と思ったあと、なんとかなったんですか?

進さん「自分でもどうやったか覚えてないけど、解体だけは早くやりましたね。

壁がポロポロ落ちてくるし、もう戻りっこないんで機材だけ出して。3月ごろには更地になっとったかな。

昭和37年の建物だったので、ダンボール箱つぶすみたいにペタペタペターっとつぶされていって、今までようこんなんでやっとったな(苦笑)と。」

ちなみに神戸市が解体の際、散水やシートでカバーするなどの対策を講じるよう建設業関係団体に通知したのは1995年2月22日(※)。チキンジョージはそれまでに解体がほぼ終わっており、かなりの早さで解体されたことがわかります。
(※内閣府防災情報のページ「阪神・淡路大震災教訓情報資料集【03】環境対策の実施」

転機になった青空ライブ

1995年5月3日。建物の解体が終わった「チキンジョージ」跡地で青空ライブが行われます。進さんは「これやったらやめよう」と思っていたそうです。

ところが…

進さん「そのステージの上で前説やらせてもらったら、その日更地に集まっていた2〜300人くらいのみんながスタンディングオベーションしてくれて。

『ちょっとやめれんなぁ…』みたいな感じになって。」

集まってこられていたのは神戸の人?

進さん「ですね。遠いとこから来られへんし、チケット売る場所もないから当日だけですね。壁もないから騒音で警察から『やめー』言われたらやめなしゃあないし…。

当日の出演者だった憂歌団の木村(充揮)さんがパッとギター持って会場入ってきて、『児島ぁ!ごっつい改造したなぁ〜!空見えとんで〜。』って言ってくれて、それでなんか一気に緊張ほぐれた感じがしましたね。」

憂歌団の木村さん…カッコ良すぎる。集まった人からのスタンディングオベーションとこの言葉に背中を押された児島三兄弟はチキンジョージの再建に奔走し、12月1日の復活オープンにこぎつけます。

5月の青空ライブからたった半年。ものすごいスピードです。

進さん「早いですね。『あれどういう段取りでできたんかな?』って今考えても不思議なんだけど。」

普通のテンションではなかった?

進さん「ですね。」

お店の再建に取り組んでいた安藤編集長の父にも鬼気迫ったものがあり、あの当時ピリピリした独特の雰囲気があったそうです。

進さん「まずは残っていたいろいろな払い戻しと新しい資金調達を次男がやって、解体はすでにやってたんですけど、新規の建築用の資材が入ってくるのも一番早かったんですよね。

そのあとはいろいろ規制が厳しくなったんで、このスピードではできなかったでしょうね。」

その決断の速さとエネルギーはすごいですね。やはり後押しされた部分もあったんでしょうか?

進さん「ありましたね。(青空ライブでスタンディングオベーションしてくれた)お客さんの後押しみたいなものがあったと思います。」

一方、復活オープン直後の出演者たちが口々に言っていたのは「お客さんにエネルギーをもらった」という言葉でした。

進さん「もうお客さん、やけくそですからね(笑)。」

そう言えば、こんなことがありました。

2011年の東日本大震災の際、神戸と同じように震災に遭った東北の人のことが他人事に思えず、豚まんを持って炊き出し活動を続けていた安藤編集長は、「被災者を元気づけよう」と思って行っているのに、「神戸も大変なのにね!ありがとう!」と東北の人から温かい言葉をかけられ、逆に元気をもらったそうです。

進さん「出演者もたぶんそうだったんでしょうね。」

それまで復興に奔走していた人々がずっと溜め込んできた鬱憤や欲求みたいなものが大きな力となって放たれた。そんな空間だったんじゃないでしょうか。

ただ復活オープンしたということは、震災からずっと「やけくそ」でやっていた非日常が終わり、日常が戻ってくることも意味します。そして、日常が戻るということは対峙せざるを得ない現実もやってくるわけです。

憲次郎さん「1994年に1階に移転した際の借金とこの震災で新しくできた借金と…。こんなこと言ったらあれですけど、1年前に震災来てくれとったら借金ひとつで済んだのに…。」

結果的に負担が重くのしかかることになってしまったチキンジョージ。それでも営業を続け、いつしか「聖地」と呼ばれるようになっていきます。

「聖地」のきっかけは震災を乗り越えたこと

復活オープン準備をしている11月の終わりくらいに、震災直後からよく神戸入りしていたニュースキャスターだった(当時)筑紫哲也さんの取材を受けます。

筑紫さんが話されたのは「ライフラインの復旧も大事だけども、エンタメが復活することも大事。」ということでした。「それが『聖地』と呼ばれていくきっかけになったんじゃないか」と進さんは言います。

進さん「チキンジョージはたいがい古いんですよ。おととし(2020年)で40年、震災の年(1995年)でも15年。関西で古いところって大阪とかでもなくなってたんですよね。

結果、チキンジョージより古いのって、京都の拾得(じっとく)とか磔磔(たくたく)くらいしかなかったので。」

老舗的な感じで続けてたら「聖地」の呼び名がついてきた?

進さん「そうですね。自分らで『聖地』とか言わないし。『登竜門』さえ言うたことないです(笑)。」

そうなってくると、いいライブハウスの条件ってなんでしょうか?

進さん「なんでしょうね?自分ではわからへんねんけども。出演者がやりやすいようにしたいな、とは思ってますね。音の面とか、ケアとか。

スタッフと出演者とコミュニケーションがとれるようになったら、次からリラックスしながらできるじゃないですか?そういう雰囲気がお客さんにも伝わる。」

勝手なイメージですけど、特に地元出身のアーティストさんなんかは、「ホーム」みたいに感じている人が多いんじゃないでしょうか?

進さん「そう思ってくれている人は少なくないと思いますね。」

進さんや勝さんの出演者に対してのケアとかは、憲次郎さんから見ていてどうですか?

進さん「まぁ飲み友達やな」

憲次郎さん「今も言おうとしたんですけど、酒飲ましとうから(笑)。『アホほど飲んでいけ〜』言うて(笑)。」

進さん「毎晩打ち上げやって。コロナになったあとはあんまりやってないですけど、たいがい朝まで飲んでますよ。飲まん人でも朝まで喋ってる。」

憲次郎さん「もう死語かもしれないですけど、『飲みニケーション』ですね(笑)。

僕も1回兄に『よう毎日毎日そんなに飲めるなぁ』て訊いたんですけど、『ひさびさに連れと半年ぶりに会うたらどないすんねん?飲みに行くやろ?』と言われて『そやなぁ…。』と。

『チキンジョージは、毎日、日替わりで違う人が来るねんで。毎日、久しぶりなんや。』と言われて『そら飲むなぁ…。』と(笑)。」

「飲みニケーション」。令和のご時世に、またこの言葉が聞けるとは(笑)。

最近では職場内で上下関係のある中での「飲みニケーション」は敬遠されがちですが、ここでの「飲みニケーション」は、アーティストとライブハウスの人間という対等な関係性での話。お二人のお話は本当に楽しいので、飲まなくても朝まで話し込みそうです。

※なお、この対談はもちろんお酒抜きで行っています。

「出演者に気持ちよくやってもらいたい」との想いは「ハコ」の大きさにも現れています。

4代目となる現在のチキンジョージのキャパシティはオールスタンディングで500名。「このサイズが神戸にはちょうどいいんじゃないかな」と進さんは言います。

進さん「震災で立て直した3代目のチキンはちょっとキャパが広かったんです。オールスタンディングで800人くらい入ったので。

別に大きいことが悪いことではないんですけど、ブッキングが難しくなるんです。大物アーティストならまだしも、アマチュアだと広すぎてさびしく感じてしまう。そうなるとやってても盛り上がらへん。」

憲次郎さん「50人くらいでもある程度埋まってるなって感じが出るので、今のサイズがちょうどいい感じじゃないですかね。」

進さんは「『聖地』と呼ばれるようになったのは震災がきっかけ」とお話されていましたが、児島さんたちの出演者に対する細やかな心配りが、そう呼ばれるきっかけになっているのかもしれません。

震災よりもキツかったコロナ禍

さて、震災を乗り越え、出演者からも慕われ「聖地」と呼ばれるまでになったチキンジョージでしたが、2020年、今度はコロナが襲いかかります。

憲次郎さん「2020年の4月はもう全滅になっとったかなぁ。最初のうちは『あんなん風邪や。大丈夫、大丈夫。』って言うとったんですけど、3月に志村けんさん亡くなってからは、もう一気に『あ、危ないんや。死ぬんや。』みたいな感じになってもたんですよね。」

開店休業状態?

進さん「いや、開けとってもアーティストが来ないし。」

憲次郎さん「お客さんも来られへんし。その前に大阪のライブハウスで感染者出たってのあったでしょ?それで、ライブハウスが『悪の根源』みたいに言われるようになってしまった。

実際、病院行った時に書く問診票の『どっか密集したとこ行ってませんか?』の例に『ライブハウス』ってあって『おいおいおい…それはないやろ…』って。」

進さん「たぶん日本で『ライブハウス』という言葉が現れて50年くらいやろうと思うんですけど、お昼のワイドショーでこれだけ『ライブハウス』って単語が出てきたのは初めてじゃないですかね?」

あのとき、ライブハウスと夜の接待を伴う飲食店は、風評被害の集中砲火を浴びていて本当に大変でした。飲食店にかかわる安藤編集長もそこに対する想いがあるようで…。

安藤「普通の飲食店もそこまでではなかったにせよキツかったと感じていて。

阪神大震災のときはまだ意思をもってそれに従って動くことができたんですけど、今回のコロナ禍は意思はあれど、それに従えないじゃないですか。

震災のときとコロナ、どちらがキツかったですか?」

進さん「いや、今回のほうがしんどかったですね。自分らでどないにもならんので。なんか空回りでしたね。」

憲次郎さん「ライブハウスだけじゃなしに、日本中…というか世界中がそうやったんでね。

阪神大震災のときは神戸だけで、他の地域には物資や人の流れはあって、神戸に入ってくるのが難しかっただけで。

でも世界中でコロナって言われたら何をしてええんか…。」

そうですよね。そのときはどうされてたんですか?

進さん「いやぁもう悶々としてるし、ここらへんで飲んでましたよ。外出て飲まれへんから(笑)。」

憲次郎さん「ここでしか飲まれへんから(笑)。」

コロナの影響による公演の中止・延期は200以上にも上ります。再開されても酒類の提供は不可、また収容人数にも制限があり、以前のような営業はできません。

さらに度重なる休業・時短要請によりチキンジョージの体力はどんどん奪われていきました。

スタッフ発案のクラウドファンディングが窮地を救う

2021年5月13日、クラウドファンディング「CAMPFIRE」でチキンジョージのページが立ち上がります。そこには「存続の危機」というショッキングなワードもあり、かなりの反響を呼びました。

最終的に支援者は4,724名、支援金は目標額1500万円の倍以上の3027万500円を集め、「CAMPFIRE クラウドファンディングアワード2021」の「音楽賞」も受賞しました。

老舗ライブハウス神戸チキンジョージコロナ禍での危機を乗り越える存続プロジェクト – CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

進さん「クラファンに行くまでは1年くらいあって、なんか成立したりしなかったりみたいなのがあって、僕はクラファン反対やったんですよ。」

どなたが発案されたんですか?

進さん「スタッフですね。『もうあきません。できません』って。」

進さんがクラファン反対だったのはなぜですか?

進さん「そんなん集まらへん、って思ってたんですよ。」

憲次郎さん「(いろんな資金調達をしていた)勝が使ってみたいという思いがあって、ただ内容とかはスタッフが書いてくれて。確かに『集まるかなぁ…集まらへんやろなぁ…』って思ってました。」

でも、目標1,500万円を2日でクリアしました。

進さん「(目標達成した)その日の晩は泣きましたよ。」

それだけ、チキンジョージになくなって欲しくないと思っている人がすごく多かったと思いますよ。

憲次郎さん「それしかないですよね。みんなが大変なときにね。震災のときは神戸以外の人やったらまだ余裕あるかもですけど、世界中がしんどいってときに助けていただけるのは感謝しかない。」

でも発案されたスタッフさんすごいですね。「絶対いけます」って思ってたんでしょうね。

進さん「『確信はあった』って言うてましたけど。ただ『2日で達成はびっくりした』って言ってましたね。」

いやすごいですね。

ちなみに用意されていたリターンの中で真っ先に売り切れたのは10枚用意されていた「児島三兄弟と飲める権利」だったそうです。ただし、実際に使われたのは2組。あとはアーティストが洒落で購入してくれたとか。

本当に「なんとかしてあげたい」というファンの熱い想いが形となって現れたクラウドファンディングでした。

クラウドファンディングで集まった資金で一息ついた感じですか?

進さん「もう家賃も払えてなかったですからね。インカムが全然ないんで。ただ公演延期・中止というのはなくなりましたから、あとお客さんが戻ってくるだけですね。こればっかりは時間が解決するしかないんでね。

誰かが前向きな言葉言うてくれたらなと。9月末にニューヨークに行ってきたんですけど、誰もマスクしてなかったですよ。エンタメも会場ガチガチで、人、入ってるし。

SARS後の香港に観光客が戻るのに10年くらいかかったらしいので、10年は長いにしても、5年くらいでそうなってくれたらいいですね。」

日本はもう少し時間がかかりそうですが、満員のチキンジョージでライブを楽しめるときが早く来てほしいです。

これからの神戸の音楽シーンは?

神戸にはチキンジョージのあとに、多くのライブハウスができました。そして新しく登場してくる神戸出身のバンドも多く、バンドが育つ文化の熟成にチキンジョージが大きくかかわっていることを実感します。

最後に神戸のライブハウスの「老舗」そして「聖地」として、これからの神戸の音楽シーンをどう見ているのかを伺いました。

進さん「今後の神戸の音楽シーンがどうなるかは正直なところ予想できないんですけど、神戸が『ミュージックシティ』と呼ばれるようになって欲しいですね。神戸には港町としての底力があると思うんですよね。

また、SNSが発達した今では、これまで東京発信だけだったものが、個人での発信が可能になり、プロとアマチュアの垣根が曖昧になってきてますよね。

そうなることで、今まで考えられないような、プロとアマチュアのセッションが実現するようになります。そんな新たなシナジー効果が生まれる機会をヘルプしていきたいなと思っています。

それと、コロナ禍ではSNSを利用したオンラインでのエンターテインメントが増えた一方で、観客の重要性を痛感しました。

カメラの前で演奏しているのと、同じ物理空間で演者と観客が相対しているのでは、当然のことながら、質感が全く違うんですよね。

SNSという情報空間で知ったアーティストを、次はライブハウスという物理次元でリアルに感じて、熱量の交換を肌で感じて欲しい。是非会場に来て欲しい。

チキンジョージとしては、そういうリアルなライブ感を感じてもらえる場所を作り続けていきたいなと思っています。」

実は対談前、憲次郎さんが「使えるもんがあるんかどうか…」とおっしゃるくらいにここに書けないエピソードが満載。

完全に筆者泣かせでしたが、話を聞くうちに楽しくて「そりゃ『来るたび飲みたい』と思うし、クラウドファンディングの『児島三兄弟と飲める権利』も人気やわ」と思いました。

三兄弟とも音楽が好きだし、来るものを拒まない。世の中に受け入れがたいものすら包み込んでくれる。だからエピソードに事欠かないし、お話が楽しい。それを良しとしてくれる人たちが集まるその場所に宿る雰囲気や空気感はその場でしか味わえません。

進さんが名前をあげられていた京都の「拾得」や「磔磔」、そして「チキンジョージ」を含めて「聖地」として残っているライブハウスはみな懐が深い。

なにかと効率化や正当性が求められる窮屈な世の中で、なんでも受け入れてくれるライブハウスの存在自体がカウンターカルチャーだと言えますし、それが今でもちゃんと残ってることが「聖地」と呼ばれる所以なのではないでしょうか。

神戸の、いや日本のカウンターカルチャーのファンベースであるチキンジョージ。お三方の人柄はもちろん、それを慕って集まる出演者やお客さんの居る空間は本当に良い空間です。

そんなリアルを体感しにぜひ足を運びましょう!

三宮一貫樓 安藤からひとこと

今回のKOBEZINEいかがでしか?

不屈の精神とはまさにこのことと感じられたのではないでしょうか。

帆船が前に進む力はマストに張られた帆に風を受けることによって推進力を得ます。追い風であれば当然まえに進む力は強いのですが、逆風でもその力を利用して前に進むことが可能なのです。

まさに今回のチキンジョージさんのお話しを伺っていると、さながら逆風に帆を張る海賊のごとき力強さを感じた次第です。

辛いことが多い世の中ですが、けっして諦めず、腐らず、時に人に甘える勇気を持つこと。それが肝要ではないかと勉強になった今回の取材でした。

ようやく世の中がこの流行り病を克服しようとしています。

神戸からチキンジョージからはじまるエンタメの反撃を期待しましょう!

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